十二月,去看一个人 孙 蕙 近几年,我在许多城市里穿行,不喜繁华市井,偏爱前往幽静、有人文底韵的景点。却从未想过,有一天,我会把公墓也当作我念念不忘的一处景点。不,不能说成景点,这样说有点轻慢了我要去看的那个人。
十二月十五日。北京。最低气温零下六度。这样的气温,也许对北京市民来说,不算很冷。但从南方来的我,仍感到风似刀子,冰冷,刺骨。只是,当我默念那个人的名字时,便觉有温暖的火苗在胸腔中燃着,令我的血液流得越来越快越来越快,想,风再大气温再低又算得了什么,什么也抵挡不了我前行的脚步。
天气却很好。从天安门广场经过时,抬头看天,蓝蓝的,清亮干净,白云飘浮着,阳光射下来,淡淡的,恰似那个人的文字,“给人间送小温” 。长安街上,汽车穿梭,游人如流。金水桥前,我看到一个旅游团,十人左右,藏民打扮,有男有女有老有少,注视城楼的目光却都是肃穆的、虔诚的。对他们而言,能零距离地面对天安门,该是多么地幸运多么地幸福。
按作家苏北先生指引的路线图,乘地铁,坐公交,再打的士,一路西行,终于,西山出现在我的眼前。可是此山却无一点黛色,倒是路两边的树上还残留着零星的绿意。快到射击场时,蓬蓬的野草在寒风中摇曳着喧哗着,显现出旺盛的生命力。我知道,它们努力向上的体内有一股力量,虽然看不见,但我却感觉得到。就像那个人的文字,总是吸引着我,吸引着我等不到春暖花开,坐了一夜的火车,千里迢迢,赶过来。
一条路,一座院墙,墙上四个字:福田公墓。往前走,不见一个人影,几排房屋整齐地列着,空中不时传来喜鹊的鸣叫声。听着自己寂寞的脚步,我的心里不是悲凉,而是有着隐隐的欢喜。继续往前走,一排排林立的墓碑,涌过来。却步环顾,发现公墓的最前方立着个大石块,近看,原来是介绍福田公墓的说明文字。
福田公墓,位于北京市石景山区西黄村乡福田寺村东,始建于一九三零年,因距福田寺较近,故取名福田公墓。这里安葬、安放着众多已故的爱国民主人士、著名教育家、科学家、文学家、艺术家、高级知识界人士及部分革命烈士的遗体和骨灰。
放眼望去,墓地有大有小,有奢华有质朴,有雕饰有光洁。这里鲜见苍松翠柏等植物,墓地与墓地之间,栽的是低矮的树木。看那树型,应是桃树吧。光秃秃的枝干上不见一枚树叶,惟有横向的树枝兀自伸展在天空下。是等待,是期求?是隐藏,是回忆?树注视着我,我注视着树,却是两相无言不着一字。
墓道的两侧,每逢十字路口就有一块立着的牌子,上面标注着名人之墓的位置,以便祭扫的人们寻找。其中有俞平伯、王国维、钱三强,姚雪垠、汪曾祺,康同璧母女,以及余叔岩、杨宝森等。原以为这些名人墓地应该十分显眼,很容易就能找到它们。但我在里面转了多时,也未找到几个。因为它们全都深藏在高高低低的墓群中,不按等级排列,也没有尊卑高低。
著名作家姚雪垠与其夫人的墓地,黑色大理石修建,因位于公墓的路边,最先进入我的视线。伫立片刻,继续向北。在来字区的路牌上,我看到这几个字:汪曾祺,现代剧作家。心跳,莫名地就加了快。可是,前后转了几圈,愣是没看见汪老的墓碑。难道先生不欢迎我吗?难道我谒拜的心不够虔诚吗?灵魂的入口处,为什么就不能对我敞开呢?
一瞬间,委屈漫上心头。再想想,先生的文字是散淡的,平实的,他说:“我喜欢疏朗清淡的风格,不喜欢繁复浓重的风格,对画,对文学,都如此。”那么,他的墓地,也一定是简洁的不起眼的了。又想起那年在凤凰,为了寻沈从文的墓地,也是走了远路才找见了。汪曾祺是沈从文的弟子,想必也应有老师的脾性吧,只不过,一个葬在山上,一个埋在地下,而已。心,便释然了,于是一个墓碑一个墓碑地挨着看过去。终于,一块大石头出现,上面刻着: 高邮 汪曾祺 长乐 施松卿
先生的墓地很狭小,与前排及左右墓地的距离仅够一人侧身,若是胖子,断断通不过。我想,倘能将先生的墓地迁回家乡高邮,一定会被当地政府修得体体面面的,哪似这般又挤又小呢。据说曾有人提过这个建议,但先生的儿子却说“他不够格”,不知此话从何讲起。
又想起刚看到的一些墓地,逝者名不经传,只因其家人有钱,墓地占地面积不但大,且造得豪华奢侈,内心很是悲哀。想不到这个极乐世界,也充满了铜臭味,谁有钱谁便是大爷。好在,世人心中自有一秆秤,尽管先生的墓地狭窄,但他的光芒却是遮盖不住的,任何时候,“心灵的祭拜远胜于物质上的祭拜。”
先生的墓碑前很整洁,不见一朵花一片叶。正面,镌刻着先生及夫人的生卒年月,背面则一片空白。正是午间时分,因前面的碑石比它高,先生的墓碑中间有一团阴影。不过,阴影的四周覆盖着一圈冬阳,令拜谒的人心生暖意。
缓缓地,我对着墓碑拜了几拜,将小花篮恭敬地轻放在碑石上,说:先生,我来看您了,感谢您的文字指引着我。是的,每每郁闷,或觉得笔下枯涩,我便会从书橱中翻出先生的书,随便打开一页,看上几行,浮躁的心即刻安静下来,“我们有过各种创伤,但我们今天应该快活”,真的呢!
不知站了多久,或许很长,或许很短,冥冥中,我看见先生的手中夹着一支烟,注视着我的双眸闪着狡黠的光芒,接着就有一股气流,裹夹着神奇的力量,穿过墓碑直抵我的掌心。 我明了,我与先生,从此——不再遥远。 摘自江苏作家网 | 12月、あの人に会いに 孫蕙
ここ数年、私は多くの都市を回った。賑やかな場所より、静かで文化の香りが漂う観光名所のほうが好みではあるが、いつか、自分が墓地をいつも心にかけ、巡ることになろうとは考えてもみなかった。いや、観光名所とは言えない。こう言うと、これから私が会いに行く人に失礼である。 12月15日、北京の最低気温はマイナス6度だった。北京市民にとってはそれほど寒くないかもしれないが、南で育った私にとっては、その風はナイフが肌を突き刺すように痛く感じられた。だが、あの人の名前を思い浮かべると、胸に暖かい火が燃えてきて、胸の鼓動がますます高まってきた。風がいくら吹こうが気温がいくら低かろうが何でもなかった。私の足取りを妨げるものはもうなにもなかった。 寒いが、良い天気だった。天安門広場を通るとき、空を見上げたら、青く、澄み渡っていた。白い雲が浮かび、柔らかな日差しはあの人の言葉のように「人々に小さな温もりを与えていた」。長安街では、車が行き交い、観光客が流れのようだった。金水橋の前で、敬虔かつ厳粛な眼差しで天安門楼閣を見つめているチベットの民族衣装に身をつつんだ、老若男女の10人ぐらいのツアーグループを見かけた。彼らにとって、間近で天安門を目にできるのは、なんと恵まれた幸せなことであろう。 作家の蘇北さんから頂いた路線図を頼りに、地下鉄から路線バスに乗り換え、またタクシーを拾い、ひたすら西へと向かった。やっと西山が目の前に現れてきた。山には少しの緑もなく、両側の街路樹にだけまばらに緑の葉が残っていた。射撃場に近づくと、ぼうぼうと生えた雑草が寒風に吹かれ、ガサガサと音を立てて、その旺盛な生命力を誇示していた。実際に見えずとも、内からほとばしる生きぬこうという野草の力がひしひしと伝わってきた。その力は、私を常に引きつけてやまないあの人の文字のようだ。強く惹きつけられた私は、花咲く、うららかな春を待てず、はるばると千里の道程を、夜行列車でここまでやってきたのだ。 一本の道、一枚の塀。塀には「福田公墓(公墓は霊園のこと)」という四文字が書いてあった。前に進むと、人影もなく、住宅が幾重にも整然と並んでいた。空からは時々鵲の鳴き声が聞こえてきた。寂しく響く自分の足音を聞きながら、私は悲しみよりも、微かな喜びを感じていた。さらに奥に進むと、一列また一列と林立している墓碑が目に入った。足を止めて周りを見ると、霊園の最前方には大きな石が立っていた。近づいて見ると、「福田公墓」の紹介だった。 「福田公墓」は北京市石景山区・西黄村郷の福田寺村の東に位置し、1930年に建てられ、福田寺と近いので、「福田公墓」と名付けられたのである。多くの愛国的な民主主義者、有名な教育者、科学者、作家、芸術家、有識者及び一部の革命烈士の遺骨や遺灰がここに埋葬されている。 見渡すと、墓碑は大きなものもあれば、小さなものもあり、豪華であったり素朴であったり、彫刻のほどこされたものがあれば、余計な飾り抜きのものもある。ここには靑々と茂る松や檜の木は滅多に見られず、墓碑の間に、低い樹木が植えてあるが、その形からすると、桃の木だろう。すっかりはげている枝には一枚の葉もなく、ただ横方向の枝が空の下に伸びているだけだった。その佇まいは何かを待っているようでもあり、求めているようでもあり、隠すようでもあり、思っているようでもあった。私と木は互いに顔を見あわせなにも言わなかった。 墓参りの人が探しやすいように、霊園の道の両側には、四辻毎に立て札が立ててあり、有名人の墓の位置を示している。その中には兪平伯、王国維、銭三強、姚雪垠、汪曾祺、康同璧母娘、及び余叔岩、楊宝森などの有名人もいた。これらの有名人の墓は探しやすいだろうと思っていたら、随分回っても、わずかしか見つけることができなかった。おそらく墓がランク付けされることもなく、身分の差もなく、すべて不揃いな墓石群に隠されていた故であろう。 有名な作家の姚雪垠とその夫人の墓は、黒い大理石で建てられ、霊園の道端に位置していたため、真っ先に私の視界に入った。しばらく足を停めたのち、また北へ進んだ。「来」というエリアの立札に、「汪曾祺、現代劇作家」という文字が書いてあるのが見えた。胸が高鳴った。しかし、その辺を何度回っても、汪翁の墓碑は見つからなかった。嫌われているのだろうか。あるいは、訪問の動機が純粋ではないからだろうか、なぜ魂の入口を私に開けてくれないのだろうか、私は不思議でならなかった。 一瞬、やりきれない気持ちを覚えた。思えば、先生の言葉は淡々としていて、地味なものであった。「私は素朴で、爽やかな作風が好きで、くどく、しつこいものが嫌いである。絵画も、文学も同じだ」。ならば、その墓碑もさぞかし地味で、目立たないものだろうと思った。またいつか、鳳凰で瀋従文の墓碑を探すために、随分と回り道をしてやっと見つけたときのことを思い浮かべた。瀋従文の弟子であるなら、汪曾祺の思いもたぶん同じだろう。一人は山に一人は地下に、という違いがあるけれど。そう思うと落ち着いてきた。そこで、一つ一つ墓碑を順に見ていったところ、やっと大きな石が現れた。その上には、こう刻まれていた。 高郵 汪曾祺 長楽 施松卿 氏の墓は非常に狭くて、前後左右の墓とは、人一人が体を横にしてやっと通れる間隔で、大柄な人なら、まったく通ることができない。もし氏の墓を故郷の高郵に移したら、きっと現地政府が立派に立ててくれただろう。これほど小さく狭くはなかっただろう。噂によると、このような提言もかつてあったそうだが、「そのような資格はない」と先生の息子が断ったそうだ。何故の辞退なのだろうか、私には知る由もない。 墓の主が有名ではないのに、ただ家族が金持ちというだけで、墓地の敷地が広い上に、贅沢な飾りをほどこされている、先程から見てきたいくつかの墓地を考えると、大変悲しくなった。まさに地獄の沙汰も金次第といわんばかりである。幸いなことに人々の心にはそれぞれのものさしがある。先生の墓は質素であるが、その輝きはまったくあせるものではない。いかなる時でも「心のこもった弔いは形だけの弔いよりずっと勝るものである」。 先生の墓碑の前には一枚の花びらや葉もなく、きれいにされていた。正面には先生と夫人の生没年月が刻字されており、裏面は空白だった。ちょうど正午で、少々高い前の碑石が先生の墓碑の真ん中に影を落としていた。しかし、影の周りを包んだ冬の日差しが訪ねて来た者のこころを温めてくれた。 私はゆっくりと何度か墓碑にお辞儀をしてから、花籠を静かに供えた。「先生、お目にかかりたく参りました。お言葉にはよく導かれております。心より感謝申し上げます。」実は、もんもんとしているとき、うまく書けない時、私はいつも、本棚から先生の本をとりだし、なんとなくページをめくる。数行読むだけで、波立っていた心がすぐに落ち着く。「我々は様々な傷を経験しているが、しかし、今日は楽しくあるべきだろう。」まったくそのとおりである。 どれぐらい立っていたのだろう、短かったかもしれないし、長かったかもしれない。なぜか先生がたばこを手に、悪戯っぽい眼を輝かせながら私を見つめている気がした。するとその次の瞬間一筋の空気の流れが、不思議な力を携えて、墓碑を通過し私の手の平に達した気がした。 その瞬間、私はわかった、先生は私の傍にいてくださると。 「江蘇作家網」より
【文責 金錦珠・石原美和】 |